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1.プレイフル・シンキング 仕事を楽しくする思考法
著 者: 上田信行(ネオミュージアム館長) ISBN:978-4-88335-220-3 発行所:宣伝会議 発行日:2009年07月05日 プレイフル・シンキング 仕事を楽しくする思考法 プレイフルとは、物事に対してワクワクドキドキする心の状態のことをいう。どんな状況であっても、自分とその場にいる人やモノを最大限に活かして、新しい意味を創り出そうとする姿勢とでも言ったらいいだろうか。 このネーミングはあるプロジェクトで僕たちがつけたものだ。「How can I do it ?(どうやったら実現できるだろう)」と考える人が、新しい仕事に対して「こうやれば実現できるかも」「あの人の助けを借りればうまくいくかも」とワクワクしながら戦略を練るときの気持ちは、まさにプレイフルな状態だといえる。(P16)     プレイフル・デザイン・スタジオの生みの親、上田先生の本「プレイフル・シンキング 仕事を楽しくする思考法」が出ました! こどものための学び環境の本と思いきや、仕事を楽しくしてしまおう!という、ビジネスマンを対象にしたスキルアップとも言うべき意識改革の本です。 遡ること2007年の春、大阪府は「こどもOS研究会」の前身とも言うべき「大阪キッズデザイン検討会」の座長として、同志社女子大学の上田先生を招き入れました。 “キッズデザイン”をキーコンセプトに、デザイン人材育成カリキュラムやモノづくり発想法を生み出し、企業を支援したいと漠然と思っていたのですが、どこから始めていいのか・・・とっかかりさえつかめません。 そんな矢先、上田先生は「会議をプレイフルにやりましょう!」と言い出したのです。 A3版の巨大な会議資料を用意し、会議室の床に車座に座り、ロールの模造紙を広げ、ポストイットを貼付け、お菓子をつまみながらジョークを飛ばす。 そして会議?は逐一ビデオに録画され、ドキュメンテーション(省察)されたのです。 世の中にこんな会議があっていいのか???カルチャーショックでした・・・。 しかし、普通の会議を想定していた初対面の人たちは急速に打ち解けていき、まるで十年来の友人であったかのように会話が弾みました。 そして、いいアイデアが次から次へと浮かんできました(まさに上田マジック!)。 今から思えば、私たちはこの本に書かれていることを全て実践してきたのです。そして「プレイフル・デザイン・スタジオ」と「こどもOS研究会」が生まれました。 遊びを通じてこどもから学ぶ安全・安心、空想力、創造力・・・デザイン発想。こんなに楽しい仕事のアプローチの仕方があるなんて不思議ですが、 モノを生み出す職業の人々は、何をおいてもプレイフルに、まずは自分が楽しんでみること。そうすればおのずと仲間ができあがる。上田先生の教えです。     [tag:こどもOS プレイフル・シンキング 上田信行]
2.子どもとあそび―環境建築家の眼―
著 者: 仙田 満 ISBN: 4-00-430253-6 発行所: 岩波新書 発行日:1992年11月20日  I あそびの原風景 スポーツクラブ よりの抜粋 野球クラブやサッカークラブに入って年長の子どもたちやリーダーと交流することは、子どもたちにとって良いことである。スポーツを楽しむことは子どもにとって大事なことだ。スポーツを否定するつもりはない。しかし小学生の子どもにとって、ルールを自分たちでつくるあそびの方が重要に思える。私は体育やスポーツの苦手な子どもだったが、あそぶのは好きだった。多くの場合、自分勝手にルールをつくってしまったのだ。 もちろん、私が子どものころから柔道や剣道などのスポーツのおけいこどとはあった。しかし、少なくともボールのスポーツはあそびだった。自由な服装で、ルールを自分たちでつくってあそんだ。ルールをつくることがポイントだった。 いま子どもたちが入っているクラブとしてのスポーツでは、ルールはすでにある。自分勝手につくってはならない。与えられるものであって、決して自由ではない。(P38)   プレイフル・デザイン・スタジオ第1回ワークショップでは、こども目線・こどもゴコロで捉えた写真から、こどもの感性や思考・行動を表すキーワードを読み解くというグループ演習を行ったのですが、そこで参加者自らが最も評価したことばとして「Mineるーる」がありました。 これは歩道の敷石、間隔のある道路の縁石、モニュメントなどから、色や形の差をこども自身が自然と読み取り、白と黒、凹と凸、セーフとアウト、ONとOFFなどの自分だけのルールに変換して、同じ色の部分を歩いてみたりピョンピョンと飛んで行ったりして、遊びにしてしまうという行動を捉えて的確に表現したことばです。 仙田氏の著書「子どもとあそび」の中にも、表現は違いますが、こどもたちがつくるあそびのルールの重要性について言及した箇所があります。 「Mineるーる」がこどもOSを構成することばの1つであることが立証できたような 気がします。   [tag:あそびのルール こどもOS]  
3.天に落ちる その2
著 者:シェル・シルヴァスタイン 訳 者:倉橋由美子 ISBN:4-06-208537-2 発行所: 講談社 発行日:2001年10月31日 ぶくぶく よりの抜粋   ぶくぶく   こいつは   世界一のでかい水たまりだと見た   水を蹴散らして渡ろうとした   その結果これは   世界一小さくて   世界一深い湖だとわかった  (P91)   水たまりを深い湖として捉えることは一種の“見立て”です。 普通、おとなはそういうことをあまり考えなくなりますが、絵本作家やアーティスト、デザイナーなどは、シルヴァスタインのようにありふれた水たまりからも創造力を膨らませることができます。 それは、日常見慣れ過ぎて意味が固定されてしまったものに、全く違った見方や意味を与える「異化」という効果であり、未知なる造形を探究するデザインにとって不可欠なアプローチではないでしょうか。      [tag:見立て 異化 こどもOS]
4.ムーミンパパの「手帖」トーベ・ヤンソンとムーミンの世界(その1)
著 者: 東 宏治 ISBN:4-7917-6312-2 発行所: 青土社 発行日:2006年12月30日  22 ポリフォニー、その他の手法について よりの抜粋 『彫刻家の娘』のなかで、友達のポユーと少女ヤンソンとが絨毯の模の上でする遊びは、ムーミントロールの太陽の影と光の部分の踏みわけ遊びに変わっている。これは、ヤンソンの頭のなかで、絨毯の模様と、地面の斑模様との間にメタファー関係が生まれたということではないか。以下に、その二つの文章を並べて引用してみよう。   「私はポユーに大きな絨毯の上の沢山の蛇から逃げる方法を教えた。蛇から逃げるには、絨毯の模様の明るい色彩の全部の上を、その明るい色の縁に沿って歩くようにしなくてはならない。その縁の隣にある暗い色のところを踏めば、その人は負けになる。絨毯の暗い模様のところには、とても言葉では説明できないほどの沢山の蛇が群がっていると想像しなければだめだ。誰も他の人が想像した蛇など恐くないのだから、蛇がそこにいるのだと、自分で想像しなければならない ・・・(あと省略)(『彫刻家の娘』26ページ)   「そんなわけで、ムーミントロールはモランのことは忘れてしまい、朝の太陽が投げかけている長い影の中を歩きながら、一つの遊びを始めました。まず太陽の照っているところだけを歩かなければいけないのです。影は海の底知れない深みです。もちろん泳げないと考えてのことですけれどね。(『ムーミンパパ海へ行く』31/33ページ)(P223)   こどももおとなも楽しめる文学であるムーミン物語。 フランス文学者 東宏治氏の「ムーミンパパの手帖」は、トーベ・ヤンソンの深い世界観を数多くの引用と明晰な分析力で読み解いています。 その中に、プレイフル・デザイン・スタジオ 第1回ワークショップ で参加者から得られた、こどもOSキーワード「Mineるーる」を補強 する箇所がありました 。 ヤンソンが現実の出来事をファンタジー化する方法として東氏が分類する手法は三つ。「(出来事の)単純化」、「(登場人物の)移しかえ」、「(イメージの)膨らまし」です。この三番目の方法を東氏は、一種のメタファー化の操作だと言っ ています。 日本語で言うと「見立て」でしょうか。こどもたちの見立て遊びがファンタジーと同根であり、それはもちろんデザインの創造にもつながっているという ことでしょう。   [tag:あそびのルール こどもOS トーベヤンソン]  
5.ファンタジーの文法 物語創作法入門 その1
原書名 : LA GRAMMATICA DELLA FANTASIA〈Rodari, Gianni〉 著 者: ジャンニ・ロダーリ 訳 者:窪田 富男 ISBN: 4-480-02481-6 発行所: ちくま文庫 発行日:1991年9月25日 4  ファンタジーの二項式 よりの抜粋 ヴィクトル・シクロフスキー ※1 は、トルストイの持っている《異化(ストラニアメント)》(ロシア語で《ostranenije》)の効果を記述しているが、トルストイは、粗末な寝椅子のことを語るのに、以前に一度も寝椅子を見たこともなく、それがどんなことに使えるのかまったく知らない人物の語り口を使っているという。 《ファンタジーの二項式》においては、ことばは日常の意味で取り上げられるものではなく、日常的に果たしていることばの鎖から解き放されるものである。ことばは、互いに《引き離され》、《流浪させられ》、まだ見たこともない異郷の空でぶつけ合わされるのである。こうすることによって、ひとつの物語を生み出すよりよい条件があたえられることになる。(P42)   ある対談でグラフィックデザイナーの原研哉が、プロダクトデザイナーの深澤直人氏がデザインした、換気扇のような形の...紐を引っ張るCDプレーヤー(無印良品)を指して次のように述べています。 一見すると、どこが面白いのかよくわかんないんだけど、後で「あ、なるほど〜」と気付くデザイン。 紐を引っ張るとファンが回るって、もう皆知ってるわけだから自然に引っ張っちゃう。 でも実際は風はこなくて、ふわ〜っと敏感になった皮膚に音楽がそよいでくるわけだから、最初の瞬間は不思議なメカニズムを感じてしまうわけです。 その辺が彼の意図なんですね。その瞬間に「あ、なるほどー」と思うわけでしょ。 深澤さんのデザインは最初は普通すぎてわからないんだけど、やっているうちに「なるほど」「ワォ」ってそれが後ろにくる。 これを「Later Wow」と言っている。最初よりもその方が忘れがたいものになる。「First Wow」よりも印象的なんだと。 これは僕が言っているコンマ以下の世界みたいなものだと思うんだけど、ものの見方や感じ方をちょっと変えてみるだけですごく印象に残る。 それを探していくのが新しいデザインの世界ではないかなと。 やっぱり鋭いプロダクトデザイナーですよね。狙ってるポイントが他のデザイナーとは全然違うんですよね。小数点を出してきてるわけですから・・・。 さて、これをこどもOS的に解釈すると、換気扇とCDプレーヤーを結びつける深澤氏のファンタジーと遊びゴコロ。そして、みんなが知っている換気扇の機能を《異化》する(いい意味で裏切る)好例と言えるのではないでしょうか。 ※1 ヴィクトル・シクロフスキー『散文の理論』 著 者: ヴィクトル・シクロフスキー 訳 者:水野 忠夫 発行所: せりか書房 発行日:1971年1月 詩的言語への深い考察から見慣れた事物を〈非日常化・異化〉する方法が芸術の方法だとする画期的な視点から文学作品の構造や表現方法を緻密に分析し、文学の内的法則の確立をめざしたロシア・フォルマリズムの代表作。 [tag:異化 ファンタジーの二項式 こどもOS]
6.自分の中の子ども—谷川俊太郎対談集(その1)
著 者: 谷川俊太郎 発行所: 青土社 発行日:1981年10月26日  I 表現行為と子ども―大江健三郎*谷川俊太郎 大人の中の「子ども」 よりの抜粋 谷川 ぼくが子どものことを考えるときに、いつでもいちばん考えるのは、結局自分のなかの抑圧されている子どもなんですね。それが抑圧されているというふうに、簡単に言い切っていいかどうかよく分かんないんだけど、少なくとも抑圧されている面はあると思うんですよ。  たぶんどんな社会でも成人式とかそういうものがある以上は、大人は大人らしく振舞わなければいけないという社会的な規律があって、どんな人間でも子どもから大人へどうしても移行せざるを得ないわけだけれども、大人のなかに子どもの部分というのはつねに残っていると思うわけね、どんなに大人らしく振舞う人でも。   (中略) マザー・グースの話から飛んじゃったけれども、そういう自分のなかの幼児的な部分、あるいは少年的な部分というものを、それを抑えることで大人になりたいと同時に、それをまた解放することでなんか自分を自由にしたい、いつでも両方の心の動きがあるみたいなんですね。   大江 さきの分析にひきつけていえば、幼児において表現される人間の全体性がある。大人になることで、全体的のものから部分的な偏った存在に転落する、局限される。そうである以上、その自分を全体的に解放しようとすれば、その手がかりとして、自分のなかで抑圧されている子どもを蘇らせることが必要だと感じる、ということになるのじゃないでしょうか。 そうすると自分のなかで死んでいる子ども、抑圧されている子どもに、あらためて目を向けることは、人間の全体性を考える文学において、積極的な意味があるということになると思う。   谷川 そうですね。   大江 ぼくはその子どもを描くことと、批評家のある種の人たちがそれに対していう、幼児性への退行という言葉とを一度切り離したいと思うのですね。幼児的なものに過去と未来とがある、とユングがいうように、子どものイメージに自分を投げこむことは、必ずしも退行を意味しない。未来に向けておおいに一歩進んだのかもしれない。ついには死に向かっていく道のりで、大きい自由を獲得するための、全体性を獲得するための行為たりうるのかもしれない。そのようにして自分のなかにある子ども、あった子ども、未来にあるであろう子どもを解放していくことは、ほんとうに作品を全体化するし自由にするということがありえると思います。   谷川 子ども時代には自分のなかの子どもの部分を意識化することはできないわけですよね。それからそれを制御することもできないと思う。だからぼくなんかがいま、自分のなかの幼児的な部分に気がついて、それを何かの形で蘇らせようとするのは、やはり自分のなかの大人の部分であって、それは自分のなかの幼児的な部分を、悲しいことにどうしても制御しちゃうわけですよね。  だからそれは二面あって、制御できるから作品化というか言語化できるんだという面と、制御するしかないから、結局自分はほんとの子どもの至福というようなものは経験できないのだという。ときどきなんか書いててもそういう制御する自分の大人の部分というものがちょっといやになるということはある。(P31)   ここで語られている対象はこどものための絵本ですが、これを「こどものためのデザイン」ととらえ直してもいっこうに差し支えはないでしょう。 大人は総じて善か悪か、白か黒かをはっきりさせたがる よう です 。 しかし 、 押しつけの善意ほど始末の悪いものはないように( それを世間では偽善といいます )。 善と悪を 両極に 置いたつもりが、いつのまにか隣どうしだ ったなんてことも珍しくありません。 本音と建前というのもその親戚かもしれないですね 。 こどもはというと善も悪も白 も黒 も、 お隣どうしの 存在で常にその位置が入れ替わっているし 固着も していないという意味で全体性という言葉がしっくりくるのでしょう。 そこから考えていくと 「こどもはこうあるべきなのだ」とか「こうすればああなる」 式の 大人の 思い込みが ...
7.天に落ちる その1
著 者:シェル・シルヴァスタイン 訳 者:倉橋由美子 ISBN:4-06-208537-2 発行所: 講談社 発行日:2001年10月31日 歩道を歩く よりの抜粋   歩道を歩く   ひびわれを踏むと   母親の背骨が折れるそうだ   でもそんなこと迷信だ ハハハ   おっと いけね ごめんよ ママ  (P43)   「ひびわれを踏むと、母親の背骨が折れる」というルールは、ちょっとシュールだけど、この作者が決めたルールです。 その時々でどんなルールにするかは、こども自身が決めること。 要は“自分の決めたルールを自分で守りたいと感じるかどうか”なんですね。       [tag:あそびのルール mineるーる こどもOS]
8.ムーミンパパの「手帖」トーベ・ヤンソンとムーミンの世界(その3)
著 者: 東 宏治 ISBN:4-7917-6312-2 発行所: 青土社 発行日:2006年12月30日  7 おばあさんの教育論 よりの抜粋 「ソフィアが新しい反抗期を経験したその夏は、雨が多くて寒く、戸外は不愉快で、とてもいやな夏だった。それでソフィアは、よく屋根裏に孤独を求め、ダンボール箱の中に入って、ナイトガウンを見つめながら、肝のつぶれるようなすごい言葉で話しかけたが、ガウンが言い返すはずはなかった。ときにはソフィアはおばあさんとトランプをした。二人とも同じように無遠慮にやっつけ合い、二人のトランプの夕べは毎回けんかで終わった。前にはそんなことは決してなかったのだ。おばあさんはソフィアを理解するため、自分の反抗期を思い出してみたが、たった一つ思い出せたのは、自分が並はずれていい子だったことだ。賢いおばあさんは、反抗期が八十五歳という年齢までものびることがあるかもしれないと思い、なおも自分自身を監視しようと決心した。『ソフィアの夏』167/168ページ) ここでおばあさんは、孫を理解するために、まず「自分の反抗期を思い出してみた」とあるけれど、このように、年齢が寄っても自分が小さかった頃の気持ちを思い出そうとする大人は少ないが、これこそ実は親や教育者たちに求められていることなのではないか。ぼくが前に、このおばあさんが生まれついての教育者のように見えると言ったのは、こういう彼女の姿を思い浮かべてのことだ。それにしても、八十五歳になっても、なお自分の体験しなかったことが今後訪れるかもしれないと考えるところに、彼女の自由な精神の真面目が表れているではないか。(P77)   ここで語られているソフィアのこども性を、おばあさんが自分のこども時代を思い出して理解しようとする態度は、そのまま「プレイフル・デザイン・スタジオ」で試みようとしている方法に他なりません。 つまり、こども時代やこどもの振る舞いに対する想いや記憶を、おとなである私たちが呼び覚まし、「おとなの中のこども性」として肯定することで自分たちをそういうモードに置き、その状態を維持しつつこどもを観察することでこどもから学び、「こどもOS」を発見していこうとするアプローチなのです。 私たちが思い浮かべているアプローチが、ずっと以前にヤンソンによって語られていたということに自信 を深めてもいいような気がしています。   [tag:おとなの中のこども性 こどもOS]
9.ムーミンパパの「手帖」トーベ・ヤンソンとムーミンの世界(その5)
著 者: 東 宏治 ISBN:4-7917-6312-2 発行所: 青土社 発行日:2006年12月30日  4 スナフキンと自由 よりの抜粋 スナフキンがとりわけ嫌うものが三つあって、ひとつはいま見た「家」、もうひとつは他人のおせっかい(「ぼくの探しているものは、おせっかいされないことさ(同139/146頁))、三つ目は、例えば「立入禁止」などと書かれた看板である。とくに看板に対する嫌悪は、いつも冷静な彼らしからぬ感情的な異常な興奮ぶりを見せる。『ムーミン谷の夏まつり』のなかでは、彼は、公園番の夫婦が芝生のまわりに囲いをし、いたるところに「煙草をすうべからず」、「芝生の上に座るべからず」、「笑ったり口笛を吹くべからず」、「跳びはねるべからず」といった人に禁止したり命令したりする看板を立てていることに腹を立て、ニョロニョロの種を使って夫婦を感電させて追っ払い、看板を全部ひき抜いてしまう。また『ムーミン谷の十一月』では、ヘムレンさんが単に「ムーミン谷」と書いた看板を橋の手摺に打ちつけただけで、気狂いみたいにとり乱す。「スナフキンのことを少しでも気をつけて見ている人だったら、この世の中には、たったひとつだけスナフキンを怒らせ、悲しませ、気狂いみたいにさせるものがある—それは看板だってことを知っているはずでした。もうスナフキンは気狂いみたいになっていました。金切り声をふりしぼり、手を振り足を踏みならし、世界中の釘という釘をみんなひっこ抜いてしまわなければ気が治まらなくなったみたいでした。(同書137/144頁)」   スナフキンが、一方で、家を嫌悪し、他人のおせっかいを嫌い、人に命令したり禁止したり人を閉めだしたり束縛したりする看板を憎むことは、他方で、ひとりでいることを好み、テント生活を愛し、旅を偏愛することと同一のことがらで、つまりそれは、彼が自由を愛しているということであり、自由を束縛するものを憎んでいるということなのである。(P45)   「なぜ滑るのか?」とこどもたちに問えば、「そこに山があるからだ!」と答えるに決まっている、おあつらえ向きの小山が公園の中にあります。しかも、滑って下さいと言わんばかりに芝生で覆われているのです。 こどもたちはわくわくしながら段ボールを持ってきて、思い思いの所から楽しそうに、はしゃぎながら滑っています。 しかし、左の写真の無粋な看板はいただけません。スナフキンでなくともひっこ抜きたくなります。せっかくの景観をぶち壊しています。 魅力的な山を作っておきながら遊ばせないという不条理には、日本特有の責任のなすりつけあいと自由に対する大人のねじ曲がった解釈が存在しています。 これは肯定すべきリスクであって断じてハザードではないということを良識あるおとなは理解しなければなりません。     あぶない!やまからすべりおりることはきけんです。やめましょう。○○しやくしょ   [tag:束縛と自由 こどもOS]
10.子どもたちの建築デザインー学校・病院・まちづくりー(その3)
著 者: 鈴木 賢一 ISBN:4-540-06245-X 発行所: 農山漁村文化協会 発行日:2006年07月  2章 子どもと学びの環境—欧米の学校建築に学ぶ— 子どもを誘う教室の床  行動と環境の関係 よりの抜粋 建築や都市を語る視点はいくつもありますが、最も重要な視点の一つは、人間の行動と環境との関係です。物理的環境のあり方は、意識するとしないにかかわらず人の心理や行動に驚くほど影響を与えています。最近、従来の都市計画学に加えて、環境心理学あるいは環境行動学といわれる研究領域の活動が盛んです。人間の心理や行動と環境との関係を本質的に明らかにしようという動きです。   ギブソン(J.J.Gibson)は環境と知覚とが切っても切れない関係にあることを、アフォーダンス(affordance)という概念で説明しようとしました。人によって発見される環境の資質や情報(行為の可能性)に着目し、afford(提供する)という動詞を用いてつくられた新たな言葉です。   抽象度の高い概念ですので、すぐには理解し難いのですが、人が人工環境を行き交う都市に目を転ずると、そこには行動と環境の関係を説明するための絶好の材料がそろっています。(P107)     こどもOS研究会でもこども目線・こどもゴコロの読み解き方の核となる「アフォーダンス」の概念ですが、一般的にデザインではなく、認知心理学や認知科学の分野で語られています。 「主体(人間)の側ではなく、客体(環境)の側にこそ行為の可能性が潜在的に存在していて、人間はそれを状況に応じて読み取っているのだ」というギブソンの主張は、人間が環境から価値を見出しているとする人間中心主義の立場からは想像しにくいものです。 しかし、しばしば私たちがこどもの行動を読めないというのは、環境に対するこども目線のアフォーダンスが存在しているからではないでしょうか。 それは、こどもの「ごっこ遊び」や「いたずら」、「ファンタジー」という条件に符合するアフォーダンスであり、おとなの常識や価値として見過ごしている可能性が大きいのです。     [tag:こどもOS アフォーダンス]
11.ムーミンパパの「手帖」トーベ・ヤンソンとムーミンの世界(その2)
著 者: 東 宏治 ISBN:4-7917-6312-2 発行所: 青土社 発行日:2006年12月30日  21 ヤンソンの方法 3 よりの抜粋 「《これはレタスだね。》と弟は言いました。《 その調子でいくと、お前はたちまち大人になるな。パパやママみたいになって、さぞ世間の役に立つことだろう。そうなったら、お前はただありきたりのことしか見たり聞いたりしないんだ。言っとくけど、そりゃ何にも見もせず、聞きもしないってことだぞ。そうなったらもうお終いだな。》こうホムサは言いました。(『ムーミン谷の仲間たち』33/37ページ) 「美しいもの」を(あるいはもっと広く言えば描くべき対象を、ここではレタスの畑を)最も簡単に言葉にし形式化して、結局形骸化してしまうのは、レタスをレタスと命名してしまうことだろう。それは書くべき対象のもつ名前の、ほんの一つにすぎないのである。もしその「美しいもの」を「レタスの畑」と言わずに黙ったまま記憶のなかにとどめ、何度も思い浮かべてみるうちに、かりに別な光に照らされたような気がして、マングローブの林のように見えてきてそう表現するなら。このメタファーはその「美しいもの」の別の名前を言うとともに、単にレタスと呼ぶ以上の奥行を、この美しいものに与えたことになるのである。(P212)   トーベ・ヤンソンは、分かりきった単純なものの代名詞として「レタス」を引き合いに出し、レタスの畑を見てレタスだと言う、すでにいっぱしの大人のような現実認識を持つ弟に対して兄のホムサを使って咎めさせます。 「これはレタスだ」と声に出して言うことで、そう言ったことばが巡って自分のなかで記憶される。こどもがことばを獲得して行くプロセスはその繰り返しであり、モノとことばが一対一で対応づけられることで形式化していく・・・。 その反面、こどもたちの見立て遊びやファンタジー、こどもOSが次第に失われていくということにクリエイターとして警鐘を鳴らしているのでしょう。   [tag:レタス こどもOS トーベヤンソン]
12.子どもと大人が出会う場所—本のなかの「子ども性」を探る その1
原書名 : SIGNS OF CHILDNESS IN CHILDREN'S BOOKS〈Hollindale, Peter〉 著 者: ピーター ・ホリンデイル 監訳:猪熊 葉子 ISBN: 4-7601-2264-8 発行所: 柏 書房 発行日:2002年9月15日 「子ども性」という語の意味 よりの抜粋 英語に「子ども性(childness)」という語彙があるが、実際に使われることはほとんどない。『オックスフォード英語辞典』(Oxford English Dictionary 以下OED)をひもとくと、次の二つの意味が載っている。 (1)子どもっぽい気質(childish humour)、大人げのなさ(childishness) (2)子どもの特性(child quality)、子どもであること(being a child) (中略) OEDの編集者たちも、既存の形容詞「子どもっぽい(childish)」と「子どものような(childlike)」が意味するものとは違う意味をあらわすことのできる、「子ども性」という名詞を明らかにしようとしているが、十分に成し得ていない。彼らの徒労には同情するが、苛立ちも覚えずにはいられない。 ポリクシニーズ ※1 は「子ども性」というとき、非難の意味をまったく込めていない。それは私たちの言葉では「子どもっぽい気質」とでも呼ばざるを得ない、子どものありようだ。 彼が意味しているのは明らかに「子どもの特性、子どもであること」という、OEDの二つめの意味である。そしてまたポリクシニーズは、「子どもっぽい」「子どものような」という二つの形容詞の意味に少しもとらわれていない。(P96)   これは、私が「こどもOS」の説明に苦心していたときに図書館で出会った本です。 「こども性」という言葉が世の中にあることを改めて知り、こどもOSという価値観で「プレイフル・デザイン・スタジオ」を組み立てるときに、非常に参考になりました 。   ※1ポリクシニーズ シェイクスピアの『冬物語』第一幕第二場で、登場するボヘミアの王。  [tag:こども性]
13.自分の中の子ども—谷川俊太郎対談集(その2)
著 者: 谷川俊太郎 発行所: 青土社 発行日:1981年10月26日  I 表現行為と子ども―大江健三郎*谷川俊太郎 子どもの為の表現 よりの抜粋 谷川 子ども時代には自分のなかの子どもの部分を意識化することはできないわけですよね。それからそれを制御することもできないと思う。だからぼくなんかがいま、自分のなかの幼児的な部分に気がついて、それを何かの形で蘇らせようとするのは、やはり自分のなかの大人の部分であって、それは自分のなかの幼児的な部分を、悲しいことにどうしても制御しちゃうわけですよね。  だからそれは二面あって、制御できるから作品化というか言語化できるんだという面と、制御するしかないから、結局自分はほんとの子どもの至福というようなものは経験できないのだという。ときどきなんか書いててもそういう制御する自分の大人の部分というものがちょっといやになるということはある。(P31)   子どもの為の表現   大江 大人が意識的に子どものふりをするということがありますね。大人の、子どもに対する表現の仕方が三つあるといえるかもしれない。わざわざ子どものふりをするというのが一つ。大人であることを意識していながら、しかし自分のなかのほんとうの子どもを解放すること、が第二。三番目には、大人でいながらもうすっかり子どもであるような、独自な瞬間での表現。ぼくは最初の、わざわざ子どものふりをする大人を、子どものとき拒否したかった。いま大人としての自分も、そうしたことをするのは嫌だと思っている。  そのような気持ちで児童文学を読んでいると、わざわざ子どものふりをしている大人の書いた児童文学があって、それには反撥する。それは表現としても面白くない。書いている大人自身にとって、自己欺瞞の表現行動であるし、子どもの側もわざわざ子どものふりをしてもらわなくていいと思うだろう。(P32)   こどもの振舞いを見ていて「こどもOS」に遭遇すると嬉しくなります。でも、こども自身はそれをどう感じているんでしょう。こどもは受け狙いで大人の反応を横目で見ているところもありますし、自分はこどものふりをしてこどもに近づいているんだろうかと自問することもあります。だから、2人が提起する自己矛盾というものをひしひしと感じています。その中で、私が取ろうとしている立場は、大江氏が言われる選択肢の二番目です。こどもの振舞いを見逃さない沈着冷静な大人としての自分は不可欠です。しかし、こどもOSに共鳴するための自分の中のこどもセンサーを研ぎすませておくことも必要です。これから経験を積むべきことは、そうした「こどものスイッチ」をいかに自然体で無意識にONにできるかということでしょうね。   [tag:おとなの中のこども性 こどもOS]
14.ムーミンパパの「手帖」トーベ・ヤンソンとムーミンの世界(その4)
著 者: 東 宏治 ISBN:4-7917-6312-2 発行所: 青土社 発行日:2006年12月30日  2 安らぎの空間、憎しみの空間 よりの抜粋 (1)その場にいると「安心感」が得られること。それは自分の三方や四方が(とくに背後が)、樹木や岩や薪の山などの"壁"によって守られていることによって得られる。 (2)それとともに、「開放感」があること。上方や前方に、空や海などの空間の拡がりがあるおかげで、閉じこめられているという感じがなくなっている。 (3)その場にひとりでいられ、ひとりでものを考えられること。かれらの見つけたその場所の広さは、せいぜいベッド二個分か、一人でしかいられないほどである。 (4)そこには太陽がさしこんだりして、「あたたみ」や「ぬくみ」が感じられること。 これらの共通点の一つ一つが、「安らぎの空間」を形づくる要素であることは、自分が子供だったころに、ムーミントロールのように秘密の隠れ処を見つけようとしたときのことや、成人して自分の部屋や書斎をもとうとするとき頭に思い描いたものを想い出してみれば、容易にうなずくことができるだろう。ぼくらが「家」というものに抱く夢は、こうしたものを基盤にしているのである。(P24)   トーベ・ヤンソンが示す安らぎの空間というものを私のこども時代に照らし合わせて見れば、それはまさに、崖に横穴を掘った秘密基地であり、土管の中のアジトであったりします。また、おばあちゃん家の薄明かりの差し込む天井裏だったかもしれません。 「現代ッ子がそんな場所を見つけられるのかな?」と思っていたら、おとなが予想だにしない場所をこどもたちが教えてくれました。 写真は、とあるショッピングセンターの案内盤の裏なのですが、傾斜した背もたれといい、温かいカーペットといい、ガラスを通して差し込む光と吹き抜けの見晴らしといい、ヤンソンが示す4つの条件を全て備えているという点と、それをこどもたちが(こどもOSを使って)環境から的確に読み取っているということに驚かされます。    [tag:安らぎの空間 こどもOS]
15.子どもたちの建築デザインー学校・病院・まちづくりー(その1)
著 者: 鈴木 賢一 ISBN:4-540-06245-X 発行所: 農山漁村文化協会 発行日:2006年07月  1章 子どもとまちづくり—ワークショップの可能性— 参画のはしごを登る 秘密基地 よりの抜粋 子どもの建築教室を重ねるうちに、プログラムの組み立てに関して板ばさみの感覚をもつようになりました。建築教室の学習プログラムを精緻にすればするほど、大人が子どもに伝えたいことが全面に出てしまい、子どもの自由な発想を奪ってしまうからです。もともとは、子どもが活動を通じて知らず知らずのうちに気が付き学ぶプロセスを大事にしたかったのです。だからこそ、どうしてもやってみたいと思う企画がありました。それが秘密基地づくりです。   (中略) 皆さんは秘密基地ということばから何を連想しますか? 研究室の学生が、今の子どもたちが秘密基地をもっているかを卒業研究で調べたことがあります。使い捨てのカメラで自分の秘密基地を写真に撮らせました。以前にはまちの中にあった得体の知れない場所が消え失せてしまって、そういう場所をもっていないのではないかという仮説に反して、多くの子どもたちが秘密基地を持っていました。写真と添えられたコメントを読むと、「秘密」とは「仲間で共有する」という意味に、「基地」とは「居場所」という意味に解釈できました。(P28)     こどもOS研究会が大人を対象に行った、2008年の第1回から第3回までの「プレイフル・デザイン・スタジオ」ワークショップでは、「こどもOSという発想自体が面白く、経験したことのない時間だった」といううれしい評価の反面、「やらされ感があった」、「はじめから“おとしドコロ”を設定してあるように感じた」というコメントもありました。ワークショップ参加者に「こどもOS」を感じてもらおうとする様々な仕掛けが、主催者側の誘導や強制に感じられたという意味で私たちの反省材料です。 2009年はこどもたちが生活している空間で「こどもOS」を調査するためのワークショップをいくつかの小学校とその周囲で行う予定です。その際に、同じ轍は踏まないということが肝要です。「こどもたちに自由にさせる」、「気づいてくれるまで待つ」という姿勢が大事ですね。 私たちの仮説は、現代のどんな地域のどんな状況に暮らすこどもたちであっても、「秘密基地」や「お気に入りの場所」、「不思議な場所」があって、そこでのこどもOSが垣間見えるというものです。こどもたちがどのような振舞いを見せてくれるのか?興味は尽きません。     [tag:秘密基地 こどもOS 気づき]
16.子どもと大人が出会う場所—本のなかの「子ども性」を探る その2
原書名 : SIGNS OF CHILDNESS IN CHILDREN'S BOOKS〈Hollindale, Peter〉 著 者: ピーター ・ホリンデイル 監訳:猪熊 葉子 ISBN: 9784760122646 (4760122648) 発行所: 柏 書房 (2002-09-15出版) 発刊日:1997年3月17日 子どもの 子ども性 よりの抜粋 ポリクシニーズ ※1 は、「さまざまな顔をもつ子ども性」について述べている。息子のフロリツェルは、遊びのなかで数々の大人の役を、次々と演じようとする。ポリクシニーズが楽しんでいるのは、子どもの自由気ままさや、とらわれなく変化していくありようである。 (中略) フロリツェルの子ども性とは、(そして、マクドナルドやOEDの編集者たちが最善の努力でもって定義しようと試みている「子どもの子ども性 ※2 」も)、子どもであることによって生まれる特性である。すなわち、みなぎる活力、あふれる想像力、いろいろなことを試そうとする欲求、相互交流性、変わりやすさなどである。そして、この子ども性こそが、私たちが成長するために欠かせないものなのである。(P97)    ここで語られている「子どもの子ども性」には、最初違和感を覚えました。なぜなら、子どもが子ども性を持っているのは、ある意味あたりまえじゃないかという感覚です。ただ単に「子ども性」だけでいいのではないか?と思ったのです。 しかし、このことばには対になることばがありました。それを知ったとき「あぁ、これは私が小学生の息子に対して、日々使っており、大人としても大事な能力なのだ」と改めて感じたのです。   ※1 ポリクシニーズ シェイクスピアの『冬物語』第一幕第二場で、登場するボヘミアの王。  ※2 子どもの子ども性 子ども性とはたとえば、子どものもつみなぎる活力、あふれる想像力、いろいろなことを試そうとする欲求、変わりやすさなどである。これらは子どもが子どもであることによって生まれる特性である。子ども性には大人が子どもに伝えたり期待するものによって規定されていく面もあり、これらは、時代、文化、宗教、個人の感性や好みなどによって変化する。このような多様な子ども性を子ども自身が融合させて自身の子ども性を構築し、子ども時代とはなにか、適切な振る舞いやタブー、特権は何かという感覚をつかんでいくことになる。 [tag:こども性]
17.子どもと大人が出会う場所—本のなかの「子ども性」を探る その4
原書名 : SIGNS OF CHILDNESS IN CHILDREN'S BOOKS〈Hollindale, Peter〉 著 者: ピーター ・ホリンデイル 監訳:猪熊 葉子 ISBN: 4-7601-2264-8 発行所: 柏 書房 発行日:2002年9月15日 テクスト の 子ども性 よりの抜粋 子ども性は、子どもの文学のテクストを他の文学ジャンルから区別するための際立った特性であり、子どもがテクストを読む際に持ち込む特質でもある、ということを主張したい。 子どもとテクストとの出会いは、うまくすれば動的なものとなる。つまり、「テクストの子ども性※1 」は、子どもの子ども性を変えることがあるし、子どもの子ども性もまた、テクストの子ども性を変えることがある。(P100)    テクストのこども性で語られている相互作用と今日の問題点は、こどものための商品がこどもの成長過程に何らかの影響を与えるとともに、デザイナーが生みだす商品をも変えて行くという意味合いにおいて、そのまま現代のキッズデザインにも当てはまるのではないでしょうか。   ※1 テクスト の子ども性 作家が、子どもの本を書く際に、テクストに付与するものである。テクストの子ども性は、子どもの読者が本を読む際にもち込む「子どもの子ども性」と交流し、相互に影響し合う。そこに子どもの文学という事象が成立する。子ども自身がもち合わせている子ども性と、テクストが内包している子ども性とは、時代差や個人差などによって合致したりかけ離れていたりする。二者の交流が生みだす作用にこそ、子どもの文学の特質があるのだが、今日の社会状況では、この交流がうまく行われるのが難しくなっているという。 [tag:こども性]  
18.子どもと大人が出会う場所—本のなかの「子ども性」を探る その5
原書名 : SIGNS OF CHILDNESS IN CHILDREN'S BOOKS〈Hollindale, Peter〉 著 者: ピーター ・ホリンデイル 監訳:猪熊 葉子 ISBN: 4-7601-2264-8 発行所: 柏 書房 発行日:2002年9月15日 子ども不在 の 子ども性 ビアトリクス・ポター『キツネどんのおはなし』 よりの抜粋 ビアトリクス・ポター ※1 は、幼い子ども向けの物語に難しい言葉を取り入れていることで有名だ。レタスを「催眠性の」と描写した例は、常に引き合いに出されている。この『キツネどんのおはなし』も例外ではない。たとえば、アナグマ・トミーがウサギ穴に「いそいそと」入る。だが、こうした大胆な言葉遊びは、幼い子どもに語彙力をつけることを目的としているわけではない。むしろ、子どもは大人の言葉を真似て、それを遊びにするものだ、という認識の表れである。   つまり、ポターは、彼女自身が大人として言葉を楽しむこと、特にその尊大で古風な形式を楽しむことで、そこに子ども読者を招き入れようとしているのだ。ポターは子どもにこう告げる。「あなたたちもこういう言葉が使えますよ。そうすれば、ばかげた大人たちを茶化せるのです。」彼女が使う「難しい」言葉は、子どもと同盟を結ぶ一つの手段である。ポターは、常に子ども読者との間に距離を保ち、常に権威ある語り手でありながら、遊びと風刺がきいた大人という、彼女自身と同じ地位に子ども読者を引き上げる。(P221)   ビアトリクス・ポターのように、 こどもの絵本の中に難しいことばを散りばめるという試みは、心理学者ピアジェの「発生的認識論」の解釈では、「不均衡化(知らないこと)」をあえて仕掛け、それを知ろうとする働きによってこどもの学びを起こさせるということになります。 しかし、どうもそうではないらしい。ポターはむしろこどもの側にいて、ばかげたおとな たちを茶化している。 そう言われてみると『ピーターラビットのおはなし』は、 現実世界へのアイロニー(皮肉)で満ちあふれていますね。 ポターに見られる、イギリス人特有の遊びゴコロと風刺の精神は、「物事の本質を見極められる、かしこい おとな になりなさい」という、こどもに、そして、おとな にも向けられたメッセージなのかもしれませんね。   ※1 ビアトリクス・ポター (1866〜1943)ロンドン生まれのイギリスの水彩画家、絵本作家。幼少時から休暇で訪れたスコットランド、湖水地方の自然に深い愛情を抱く。のちに自ら購入し移住した湖水地方の土地を舞台にして、『ピーターラビットのおはなし』(1902)から始まる二十余冊の「ピーターラビットの絵本」シリーズが創作された。 [tag:こども性 こども不在 レタス]
19.子どもたちの建築デザインー学校・病院・まちづくりー(その2)
著 者: 鈴木 賢一 ISBN:4-540-06245-X 発行所: 農山漁村文化協会 発行日:2006年07月  1章 子どもとまちづくり—ワークショップの可能性— まち歩きのすすめ 風景を切り取る よりの抜粋 ただ闇雲に「まち歩き」するのではなく、成果を共有するための方法が必要です。子どもたちに簡単にできる方法の一つは、使い捨てカメラまたはポラロイドカメラでの写真撮影です。面白い写真を撮るという明確な目標を与えられた子どもたちは、さながら小さな新聞記者、「路上観察学会会員予備軍」といった様子で、蜘蛛の子を散らすようにまちの取材に出かけます。 しばらくすると名前のわからない巨木があった、実のなる木があるといって、ささやかな自然を見つけてきます。紅葉した葉っぱとドングリを合わせて持ってきてくれます。コンクリート塀を突き破った木の根、変な形の外灯、アメンボが描かれたマンホールなど、ちょっと変わったものへの興味は大人より子どもの方が勝ります。良い写真を撮ろうとひとひねりを狙う大人と違い、小学生の写真はストレートです。   (中略) 撮影された写真を並べて気が付くことは、意識しなければどこのまちにもありそうで見過ごしがちなものばかりだということです。しかし、どの被写体も地域独自のものでかけがえがなく、各々濃密ないわく因縁を持っていそうです。しかも、その時その場で撮影しないと意外にシャッターチャンスを逃すものもあります。写真は見えている視界全体の中から、特定のシーンを切り取る作業ですから、撮影者独自の世界観が見え隠れします。子どもは、写真でまちの新しい見方を無意識のうちに教えてくれます。(P53)     こどもOS研究会では「ぼくらの町のお散歩会!」というこども参加のワークショップを通じて、こどもたちの自然な振舞い(こどもOS)を調査する予定です。 こどもたちにビデオカメラ、おもちゃのマイク、地図を渡して実際のテレビクルーさながらに、こどもたちが知っている楽しい場所をレポートしてもらうのです。 まち歩きイベントの形を借りていますが、私たちのもう一つの目的は「こどもOS」の観察。 こどもたちのまち歩きの様子をメタカメラで捉えるというのはドキュメンテーションの入れ子状態ですね。     [tag:まち歩き こどもOS 気づき]
20.子どもと大人が出会う場所—本のなかの「子ども性」を探る その3
原書名 : SIGNS OF CHILDNESS IN CHILDREN'S BOOKS〈Hollindale, Peter〉 著 者: ピーター ・ホリンデイル 監訳:猪熊 葉子 ISBN: 4-7601-2264-8 発行所: 柏 書房 発行日:2002年9月15日 大人の子ども性 よりの抜粋 一方、大人がル・グウィン ※1 がいうところの「生き残った子ども」を、自らの内に保ち続けることができたり、成熟した自己を完成できたりするのもまた、子ども性によるのである。 ここで、フロリツェルからポリクシニーズへ、子どもから大人へ、あるいは息子から父親へと視線を移してみよう。すると、ポリクシニーズやリオンティーズの「大人の子ども性 ※ 2 」には、子どもであるフロリツェルの子ども性とはまた別の特性があることがわかる。 (中略) 私たち大人は、物語を語ったり読んだりすること、そして小説を書いたり読んだりすることによって遊んでいる。たとえその活動がどんなに複雑であろうが、分別を伴うものであろうが、痛みを伴うものであろうが、遊びと呼べるものなのである。私たち大人は、子どもたちが読書をするときのように、意識することなく学んでいることがある。遊びというものの多くは、それと知らずになされた学びであり、また最高の学びとは、それと知らずになされた遊びなのだ。子どもの文学は、この原理に基づいている。また。大人の文学についても同じことがいえる。 (中略) フロリツェルと遊んでいるとき、ポリクシニーズは大人であることをやめはしない。つまり大人は、子どものようには読書をしないのと同じように、子どものようには遊ばない。しかしフロリツェルとポリクシニーズの間には、相互交流がある。子ども時代や子どもの振る舞いに対する二人の思いは、喜ばしいことに一致している。この、大人と子どもに共通する価値観によって、大人はいわば参加する傍観者として子どもとつながることができるのだ。 (中略) フロリツェルとポリクシニーズに共通して見られる、子ども時代や子どもの振る舞いに対する思いこそが、「子ども性」なるものである。フロリツェルにとっての子ども性は、子どもであるという自分の現在の状態についての感覚である。一方、ポリクシニーズにとっての子ども性は、息子と遊んだり観察したりするなかで、子ども時代の記憶を引き出したり、子どもの特性に価値を見出したり、息子の将来に希望を抱いたりすることを通じて、再構築されるものである。つまり子どもの特性は、子どもと大人に共有のものだ。もっとも子どもと大人では、異なった体験や理解の仕方をするのだけれども。(P99)   もうひとつの子ども性は、「大人の子ども性」という言葉です。子どもとともに遊び、笑い、驚き、感動し、価値を共有してきたものは、私のなかの子ども性がそうさせていると言えるものです。  そして、この「大人の子ども性」こそが、文学や芸術、科学やデザインなどを生み出していく知的探究心や創造性の源となっていることは、間違いのないことだという気がしてい ます。   ※1 ル・グウィン アメリカの作家アーシュラ・ル・グウィン(1929〜)代表作は、架空の第二世界アースシーを舞台にした魔法使いゲドの旅を描く「ゲド戦記」。 ※2 大人の子ども性 大人がもつ、子ども時代や子どもの振る舞いに対する思いが、大人の子ども性である。大人が子どもと共有できる特性であり、大人になっても自らの内に子どもを保ち続けたり、子どもと遊んで楽しいと感じるのは、この子ども性によるのである。 大人は、子どもと遊んだり子どもを観察したりするなかで、自らの子ども時代の記憶を引き出したり、子どもの特性に価値を見出したり、子どもに期待したりする。これを通じて子ども性を再構築していくことになる。主観性の強い構築物であり、また、直接的であるか間接的であるかにかかわらず、かかわった子どもの子ども性に影響を与えるという。 [tag:こども性]
21.子どもたちの建築デザインー学校・病院・まちづくりー(その5)
著 者: 鈴木 賢一 ISBN:4-540-06245-X 発行所: 農山漁村文化協会 発行日:2006年07月  1章 子どもとまちづくり—ワークショップの可能性— まちづくりへのアイドリング  まちづくりゲーム—向こう三軒両隣 よりの抜粋 このまちづくりゲームでは、住宅の模型づくりと同様に、大人チームと子どもチームに分けて作業をします。大人たちはついつい子どもに余計な世話をしてしまうので、それを避けるためです。まちの完成までのプロセスは大人と子どもではまったく対照的です。子どもたちはつくりながら考え調整していきます。大人は考えがまとまるまで手が動きません。大人のまちは完成度が高いのですが、まちの楽しげな雰囲気は子どもたちにはかないません。 個人の夢の実現は、周囲の理解と支援が必要であり、そのためには守るべきまちづくりのルールがあることに何となく気付いてくれれば、まちづくりへのアイドリングも完了です。(P65)     おとな(親)とこどもとが一緒にワークショップを行うと、たいていのおとなは良かれと思って「ここはこうした方がいいよ」と助言したり手伝ったりして、こどもたちに構いすぎてしまいます。 こどもOS研究会の場合はさしづめ、「危ないから降りなさい」とか「汚いからやめなさい」という親や教師の目線になるでしょうか。これでは自然な普段の状態でのこどもOSを発見することはできません。 このため、迷いましたが2009年の小学校でのワークショップでは一般参加者の募集をやめ、目標設定と価値観を共有できている「こどもOS研究会」のメンバーが調査研究に当たることになりました。 調査結果はこのサイトや、水都大阪2009の会場で発表いたしますのでお許しとご理解の程、よろしくお願いします。     [tag:こどもOS]
22.子どもたちの建築デザインー学校・病院・まちづくりー(その4)
著 者: 鈴木 賢一 ISBN:4-540-06245-X 発行所: 農山漁村文化協会 発行日:2006年07月  2章 子どもと学びの環境—欧米の学校建築に学ぶ— 遊びをせんとや生まれけむ 遊びながら学ぶ よりの抜粋 子どもたちが生き生きと健やかに育つことが、困難になってきていることを誰もが実感しています。寝食忘れて思いきり遊ぶことのできる身近な自然はありません。大人たちの仕事や生活にさりげなく触れる機会も失ってしまいました。かつてまちの中には、生活する場と働く場がほどよく混在しており、子どもは大人社会の現実が顔をのぞかせる「道」で遊んでいました。地域の中に子どもからお年寄りまで楽しめる四季折々の伝統的行事や祭りが受け継がれ、特定の地域に生活することの共同意識や帰属感を育んでいました。しかし今では地域全体で楽しむ行事は敬遠され、家庭内での個人的楽しみや地域外へのレジャーが好まれ、地域と子どもとの接点は消滅寸前です。   これまで子どもと学びの環境をテーマに「学校」を取り上げてきましたが、「学校」は子どもたちが「学ぶ」ことに対してひどく寛容なのに、「遊ぶ」ことに関してはしばしば冷たいものがあります。親も社会も、目標の明確な「学び」を強要するばかりで、「遊び」を受け入れるだけの余裕がありません。にもかかわらず子どもに対する自慢話は、きまって「昔はよく遊んだものだ」です。 「遊び」を語らずして、子どもの本質を語ることはほとんど不可能です。子どもにとっての「遊び」は生活のすべてである、とまで言い切る哲学者もいます。子どもにとってそれほどまで意味を持つ「遊び」とはいったい何なんでしょうか。例えば、自立した大人として成長するためのトレーニング、あるいは集団社会に入り込むためのシミュレーションと見ることができます。とすると、「遊び」と「学び」とはいったいどこが違うのでしょうか。「学び」には目的があるが「遊び」は目的をともなわない、という違いがあるかも知れません。しかし、子どもにとって遊ぶこととはつまり学ぶことであり、その違いを探すこと自体があまり意味を持ちません。(P187)     鈴木氏が指摘しているように、こどもたちの育ちの場が少なくなってきているのは事実であり、また、異なる年齢(縦社会)による集団の遊びの機会も減っているようです。 このような社会や地域共同体の変化が及ぼすこどもたちへの影響を調べることは大変重要です。 こどもOS研究会で行う「ぼくらの町のお散歩会!」では、「遊び(=学び)」を通じて「こどもOS」の様々なスタイルを観察・発見するとともに、現代のこどもたちにどのような遊びの場が残されているのか?地域を変えていくつかの小学校とその周囲で調査を行う予定です。     [tag:遊びこどもOS 学び]