2024年3月19日(火) 15:18 JST

書物に学ぼう!

 「書物に学ぼう!」は、“こどもOS”からデザインの創造性を読み解くためのヒントを様々な書物から引用し、「知識」を共有するコーナーです。

「これって“こどもOS”のことじゃないかな?」という文章がありましたら、引用し、それについての私見を遠慮なくドシドシ投稿して下さい!

コメントの投稿(スルドイつっこみ)もお待ちしております。


プレイフル・シンキング 仕事を楽しくする思考法

プレイフル・シンキング 仕事を楽しくする思考法

著 者: 上田信行(ネオミュージアム館長)
ISBN:978-4-88335-220-3

発行所:宣伝会議

発行日:2009年07月05日

プレイフル・シンキング 仕事を楽しくする思考法


  • プレイフルとは、物事に対してワクワクドキドキする心の状態のことをいう。どんな状況であっても、自分とその場にいる人やモノを最大限に活かして、新しい意味を創り出そうとする姿勢とでも言ったらいいだろうか。
  • このネーミングはあるプロジェクトで僕たちがつけたものだ。「How can I do it ?(どうやったら実現できるだろう)」と考える人が、新しい仕事に対して「こうやれば実現できるかも」「あの人の助けを借りればうまくいくかも」とワクワクしながら戦略を練るときの気持ちは、まさにプレイフルな状態だといえる。(P16)

 

 

プレイフル・シンキング 仕事を楽しくする思考法プレイフル・シンキング 仕事を楽しくする思考法

プレイフル・デザイン・スタジオの生みの親、上田先生の本「プレイフル・シンキング 仕事を楽しくする思考法」が出ました!

こどものための学び環境の本と思いきや、仕事を楽しくしてしまおう!という、ビジネスマンを対象にしたスキルアップとも言うべき意識改革の本です。

遡ること2007年の春、大阪府は「こどもOS研究会」の前身とも言うべき「大阪キッズデザイン検討会」の座長として、同志社女子大学の上田先生を招き入れました。

“キッズデザイン”をキーコンセプトに、デザイン人材育成カリキュラムやモノづくり発想法を生み出し、企業を支援したいと漠然と思っていたのですが、どこから始めていいのか・・・とっかかりさえつかめません。

そんな矢先、上田先生は「会議をプレイフルにやりましょう!」と言い出したのです。

A3版の巨大な会議資料を用意し、会議室の床に車座に座り、ロールの模造紙を広げ、ポストイットを貼付け、お菓子をつまみながらジョークを飛ばす。

そして会議?は逐一ビデオに録画され、ドキュメンテーション(省察)されたのです。

世の中にこんな会議があっていいのか???カルチャーショックでした・・・。

しかし、普通の会議を想定していた初対面の人たちは急速に打ち解けていき、まるで十年来の友人であったかのように会話が弾みました。

そして、いいアイデアが次から次へと浮かんできました(まさに上田マジック!)。

今から思えば、私たちはこの本に書かれていることを全て実践してきたのです。そして「プレイフル・デザイン・スタジオ」と「こどもOS研究会」が生まれました。

遊びを通じてこどもから学ぶ安全・安心、空想力、創造力・・・デザイン発想。こんなに楽しい仕事のアプローチの仕方があるなんて不思議ですが、

モノを生み出す職業の人々は、何をおいてもプレイフルに、まずは自分が楽しんでみること。そうすればおのずと仲間ができあがる。上田先生の教えです。

 

 

[tag:こどもOS プレイフル・シンキング 上田信行]

子どもたちの建築デザインー学校・病院・まちづくりー(その5)

子どもたちの建築デザイン

著 者: 鈴木 賢一
ISBN:4-540-06245-X

発行所: 農山漁村文化協会

発行日:2006年07月

 1章 子どもとまちづくり—ワークショップの可能性— まちづくりへのアイドリング まちづくりゲーム—向こう三軒両隣 よりの抜粋


  • このまちづくりゲームでは、住宅の模型づくりと同様に、大人チームと子どもチームに分けて作業をします。大人たちはついつい子どもに余計な世話をしてしまうので、それを避けるためです。まちの完成までのプロセスは大人と子どもではまったく対照的です。子どもたちはつくりながら考え調整していきます。大人は考えがまとまるまで手が動きません。大人のまちは完成度が高いのですが、まちの楽しげな雰囲気は子どもたちにはかないません。
  • 個人の夢の実現は、周囲の理解と支援が必要であり、そのためには守るべきまちづくりのルールがあることに何となく気付いてくれれば、まちづくりへのアイドリングも完了です。(P65)

 

 

おとな(親)とこどもとが一緒にワークショップを行うと、たいていのおとなは良かれと思って「ここはこうした方がいいよ」と助言したり手伝ったりして、こどもたちに構いすぎてしまいます。

こどもOS研究会の場合はさしづめ、「危ないから降りなさい」とか「汚いからやめなさい」という親や教師の目線になるでしょうか。これでは自然な普段の状態でのこどもOSを発見することはできません。

このため、迷いましたが2009年の小学校でのワークショップでは一般参加者の募集をやめ、目標設定と価値観を共有できている「こどもOS研究会」のメンバーが調査研究に当たることになりました。

調査結果はこのサイトや、水都大阪2009の会場で発表いたしますのでお許しとご理解の程、よろしくお願いします。

 

 

[tag:こどもOS]

子どもたちの建築デザインー学校・病院・まちづくりー(その4)

子どもたちの建築デザイン

著 者: 鈴木 賢一
ISBN:4-540-06245-X

発行所: 農山漁村文化協会

発行日:2006年07月

 2章 子どもと学びの環境—欧米の学校建築に学ぶ— 遊びをせんとや生まれけむ 遊びながら学ぶ よりの抜粋


  • 子どもたちが生き生きと健やかに育つことが、困難になってきていることを誰もが実感しています。寝食忘れて思いきり遊ぶことのできる身近な自然はありません。大人たちの仕事や生活にさりげなく触れる機会も失ってしまいました。かつてまちの中には、生活する場と働く場がほどよく混在しており、子どもは大人社会の現実が顔をのぞかせる「道」で遊んでいました。地域の中に子どもからお年寄りまで楽しめる四季折々の伝統的行事や祭りが受け継がれ、特定の地域に生活することの共同意識や帰属感を育んでいました。しかし今では地域全体で楽しむ行事は敬遠され、家庭内での個人的楽しみや地域外へのレジャーが好まれ、地域と子どもとの接点は消滅寸前です。
  •  
  • これまで子どもと学びの環境をテーマに「学校」を取り上げてきましたが、「学校」は子どもたちが「学ぶ」ことに対してひどく寛容なのに、「遊ぶ」ことに関してはしばしば冷たいものがあります。親も社会も、目標の明確な「学び」を強要するばかりで、「遊び」を受け入れるだけの余裕がありません。にもかかわらず子どもに対する自慢話は、きまって「昔はよく遊んだものだ」です。
  • 「遊び」を語らずして、子どもの本質を語ることはほとんど不可能です。子どもにとっての「遊び」は生活のすべてである、とまで言い切る哲学者もいます。子どもにとってそれほどまで意味を持つ「遊び」とはいったい何なんでしょうか。例えば、自立した大人として成長するためのトレーニング、あるいは集団社会に入り込むためのシミュレーションと見ることができます。とすると、「遊び」と「学び」とはいったいどこが違うのでしょうか。「学び」には目的があるが「遊び」は目的をともなわない、という違いがあるかも知れません。しかし、子どもにとって遊ぶこととはつまり学ぶことであり、その違いを探すこと自体があまり意味を持ちません。(P187)

 

 

鈴木氏が指摘しているように、こどもたちの育ちの場が少なくなってきているのは事実であり、また、異なる年齢(縦社会)による集団の遊びの機会も減っているようです。

このような社会や地域共同体の変化が及ぼすこどもたちへの影響を調べることは大変重要です。

こどもOS研究会で行う「ぼくらの町のお散歩会!」では、「遊び(=学び)」を通じて「こどもOS」の様々なスタイルを観察・発見するとともに、現代のこどもたちにどのような遊びの場が残されているのか?地域を変えていくつかの小学校とその周囲で調査を行う予定です。

 

 

[tag:遊びこどもOS 学び]

子どもたちの建築デザインー学校・病院・まちづくりー(その3)

子どもたちの建築デザイン

著 者: 鈴木 賢一
ISBN:4-540-06245-X

発行所: 農山漁村文化協会

発行日:2006年07月

 2章 子どもと学びの環境—欧米の学校建築に学ぶ— 子どもを誘う教室の床 行動と環境の関係 よりの抜粋


  • 建築や都市を語る視点はいくつもありますが、最も重要な視点の一つは、人間の行動と環境との関係です。物理的環境のあり方は、意識するとしないにかかわらず人の心理や行動に驚くほど影響を与えています。最近、従来の都市計画学に加えて、環境心理学あるいは環境行動学といわれる研究領域の活動が盛んです。人間の心理や行動と環境との関係を本質的に明らかにしようという動きです。
  •  
  • ギブソン(J.J.Gibson)は環境と知覚とが切っても切れない関係にあることを、アフォーダンス(affordance)という概念で説明しようとしました。人によって発見される環境の資質や情報(行為の可能性)に着目し、afford(提供する)という動詞を用いてつくられた新たな言葉です。
  •  
  • 抽象度の高い概念ですので、すぐには理解し難いのですが、人が人工環境を行き交う都市に目を転ずると、そこには行動と環境の関係を説明するための絶好の材料がそろっています。(P107)

 

 

こどもOS研究会でもこども目線・こどもゴコロの読み解き方の核となる「アフォーダンス」の概念ですが、一般的にデザインではなく、認知心理学や認知科学の分野で語られています。

「主体(人間)の側ではなく、客体(環境)の側にこそ行為の可能性が潜在的に存在していて、人間はそれを状況に応じて読み取っているのだ」というギブソンの主張は、人間が環境から価値を見出しているとする人間中心主義の立場からは想像しにくいものです。

しかし、しばしば私たちがこどもの行動を読めないというのは、環境に対するこども目線のアフォーダンスが存在しているからではないでしょうか。

それは、こどもの「ごっこ遊び」や「いたずら」、「ファンタジー」という条件に符合するアフォーダンスであり、おとなの常識や価値として見過ごしている可能性が大きいのです。

 

 

[tag:こどもOS アフォーダンス]

子どもたちの建築デザインー学校・病院・まちづくりー(その2)

子どもたちの建築デザイン

著 者: 鈴木 賢一
ISBN:4-540-06245-X

発行所: 農山漁村文化協会

発行日:2006年07月

 1章 子どもとまちづくり—ワークショップの可能性— まち歩きのすすめ 風景を切り取る よりの抜粋


  • ただ闇雲に「まち歩き」するのではなく、成果を共有するための方法が必要です。子どもたちに簡単にできる方法の一つは、使い捨てカメラまたはポラロイドカメラでの写真撮影です。面白い写真を撮るという明確な目標を与えられた子どもたちは、さながら小さな新聞記者、「路上観察学会会員予備軍」といった様子で、蜘蛛の子を散らすようにまちの取材に出かけます。
  • しばらくすると名前のわからない巨木があった、実のなる木があるといって、ささやかな自然を見つけてきます。紅葉した葉っぱとドングリを合わせて持ってきてくれます。コンクリート塀を突き破った木の根、変な形の外灯、アメンボが描かれたマンホールなど、ちょっと変わったものへの興味は大人より子どもの方が勝ります。良い写真を撮ろうとひとひねりを狙う大人と違い、小学生の写真はストレートです。
  •  
  • (中略)
  • 撮影された写真を並べて気が付くことは、意識しなければどこのまちにもありそうで見過ごしがちなものばかりだということです。しかし、どの被写体も地域独自のものでかけがえがなく、各々濃密ないわく因縁を持っていそうです。しかも、その時その場で撮影しないと意外にシャッターチャンスを逃すものもあります。写真は見えている視界全体の中から、特定のシーンを切り取る作業ですから、撮影者独自の世界観が見え隠れします。子どもは、写真でまちの新しい見方を無意識のうちに教えてくれます。(P53)

 

 

こどもOS研究会では「ぼくらの町のお散歩会!」というこども参加のワークショップを通じて、こどもたちの自然な振舞い(こどもOS)を調査する予定です。

こどもたちにビデオカメラ、おもちゃのマイク、地図を渡して実際のテレビクルーさながらに、こどもたちが知っている楽しい場所をレポートしてもらうのです。

まち歩きイベントの形を借りていますが、私たちのもう一つの目的は「こどもOS」の観察。

こどもたちのまち歩きの様子をメタカメラで捉えるというのはドキュメンテーションの入れ子状態ですね。

 

 

[tag:まち歩き こどもOS 気づき]

子どもたちの建築デザインー学校・病院・まちづくりー(その1)

子どもたちの建築デザイン

著 者: 鈴木 賢一
ISBN:4-540-06245-X

発行所: 農山漁村文化協会

発行日:2006年07月

 1章 子どもとまちづくり—ワークショップの可能性— 参画のはしごを登る 秘密基地 よりの抜粋


  • 子どもの建築教室を重ねるうちに、プログラムの組み立てに関して板ばさみの感覚をもつようになりました。建築教室の学習プログラムを精緻にすればするほど、大人が子どもに伝えたいことが全面に出てしまい、子どもの自由な発想を奪ってしまうからです。もともとは、子どもが活動を通じて知らず知らずのうちに気が付き学ぶプロセスを大事にしたかったのです。だからこそ、どうしてもやってみたいと思う企画がありました。それが秘密基地づくりです。
  •  
  • (中略)
  • 皆さんは秘密基地ということばから何を連想しますか? 研究室の学生が、今の子どもたちが秘密基地をもっているかを卒業研究で調べたことがあります。使い捨てのカメラで自分の秘密基地を写真に撮らせました。以前にはまちの中にあった得体の知れない場所が消え失せてしまって、そういう場所をもっていないのではないかという仮説に反して、多くの子どもたちが秘密基地を持っていました。写真と添えられたコメントを読むと、「秘密」とは「仲間で共有する」という意味に、「基地」とは「居場所」という意味に解釈できました。(P28)

 

 

こどもOS研究会が大人を対象に行った、2008年の第1回から第3回までの「プレイフル・デザイン・スタジオ」ワークショップでは、「こどもOSという発想自体が面白く、経験したことのない時間だった」といううれしい評価の反面、「やらされ感があった」、「はじめから“おとしドコロ”を設定してあるように感じた」というコメントもありました。ワークショップ参加者に「こどもOS」を感じてもらおうとする様々な仕掛けが、主催者側の誘導や強制に感じられたという意味で私たちの反省材料です。

2009年はこどもたちが生活している空間で「こどもOS」を調査するためのワークショップをいくつかの小学校とその周囲で行う予定です。その際に、同じ轍は踏まないということが肝要です。「こどもたちに自由にさせる」、「気づいてくれるまで待つ」という姿勢が大事ですね。

私たちの仮説は、現代のどんな地域のどんな状況に暮らすこどもたちであっても、「秘密基地」や「お気に入りの場所」、「不思議な場所」があって、そこでのこどもOSが垣間見えるというものです。こどもたちがどのような振舞いを見せてくれるのか?興味は尽きません。

 

 

[tag:秘密基地 こどもOS 気づき]

自分の中の子ども—谷川俊太郎対談集(その2)

自分の中の子ども

著 者: 谷川俊太郎

発行所: 青土社

発行日:1981年10月26日

 I 表現行為と子ども―大江健三郎*谷川俊太郎 子どもの為の表現 よりの抜粋


  • 谷川 子ども時代には自分のなかの子どもの部分を意識化することはできないわけですよね。それからそれを制御することもできないと思う。だからぼくなんかがいま、自分のなかの幼児的な部分に気がついて、それを何かの形で蘇らせようとするのは、やはり自分のなかの大人の部分であって、それは自分のなかの幼児的な部分を、悲しいことにどうしても制御しちゃうわけですよね。
  •  だからそれは二面あって、制御できるから作品化というか言語化できるんだという面と、制御するしかないから、結局自分はほんとの子どもの至福というようなものは経験できないのだという。ときどきなんか書いててもそういう制御する自分の大人の部分というものがちょっといやになるということはある。(P31)
  •  
  • 子どもの為の表現
  •  
  • 大江 大人が意識的に子どものふりをするということがありますね。大人の、子どもに対する表現の仕方が三つあるといえるかもしれない。わざわざ子どものふりをするというのが一つ大人であることを意識していながら、しかし自分のなかのほんとうの子どもを解放すること、が第二三番目には、大人でいながらもうすっかり子どもであるような、独自な瞬間での表現。ぼくは最初の、わざわざ子どものふりをする大人を、子どものとき拒否したかった。いま大人としての自分も、そうしたことをするのは嫌だと思っている。
  •  そのような気持ちで児童文学を読んでいると、わざわざ子どものふりをしている大人の書いた児童文学があって、それには反撥する。それは表現としても面白くない。書いている大人自身にとって、自己欺瞞の表現行動であるし、子どもの側もわざわざ子どものふりをしてもらわなくていいと思うだろう。(P32)

 

こどもの振舞いを見ていて「こどもOS」に遭遇すると嬉しくなります。でも、こども自身はそれをどう感じているんでしょう。こどもは受け狙いで大人の反応を横目で見ているところもありますし、自分はこどものふりをしてこどもに近づいているんだろうかと自問することもあります。だから、2人が提起する自己矛盾というものをひしひしと感じています。その中で、私が取ろうとしている立場は、大江氏が言われる選択肢の二番目です。こどもの振舞いを見逃さない沈着冷静な大人としての自分は不可欠です。しかし、こどもOSに共鳴するための自分の中のこどもセンサーを研ぎすませておくことも必要です。これから経験を積むべきことは、そうした「こどものスイッチ」をいかに自然体で無意識にONにできるかということでしょうね。

 

[tag:おとなの中のこども性 こどもOS]

自分の中の子ども—谷川俊太郎対談集(その1)

自分の中の子ども

著 者: 谷川俊太郎

発行所: 青土社

発行日:1981年10月26日

 I 表現行為と子ども―大江健三郎*谷川俊太郎 大人の中の「子ども」 よりの抜粋


  • 谷川 ぼくが子どものことを考えるときに、いつでもいちばん考えるのは、結局自分のなかの抑圧されている子どもなんですね。それが抑圧されているというふうに、簡単に言い切っていいかどうかよく分かんないんだけど、少なくとも抑圧されている面はあると思うんですよ。
  •  たぶんどんな社会でも成人式とかそういうものがある以上は、大人は大人らしく振舞わなければいけないという社会的な規律があって、どんな人間でも子どもから大人へどうしても移行せざるを得ないわけだけれども、大人のなかに子どもの部分というのはつねに残っていると思うわけね、どんなに大人らしく振舞う人でも
  •  
  • (中略)
  • マザー・グースの話から飛んじゃったけれども、そういう自分のなかの幼児的な部分、あるいは少年的な部分というものを、それを抑えることで大人になりたいと同時に、それをまた解放することでなんか自分を自由にしたい、いつでも両方の心の動きがあるみたいなんですね
  •  
  • 大江 さきの分析にひきつけていえば、幼児において表現される人間の全体性がある。大人になることで、全体的のものから部分的な偏った存在に転落する、局限される。そうである以上、その自分を全体的に解放しようとすれば、その手がかりとして、自分のなかで抑圧されている子どもを蘇らせることが必要だと感じる、ということになるのじゃないでしょうか
  • そうすると自分のなかで死んでいる子ども、抑圧されている子どもに、あらためて目を向けることは、人間の全体性を考える文学において、積極的な意味があるということになると思う。
  •  
  • 谷川 そうですね。
  •  
  • 大江 ぼくはその子どもを描くことと、批評家のある種の人たちがそれに対していう、幼児性への退行という言葉とを一度切り離したいと思うのですね。幼児的なものに過去と未来とがある、とユングがいうように、子どものイメージに自分を投げこむことは、必ずしも退行を意味しない。未来に向けておおいに一歩進んだのかもしれない。ついには死に向かっていく道のりで、大きい自由を獲得するための、全体性を獲得するための行為たりうるのかもしれない。そのようにして自分のなかにある子ども、あった子ども、未来にあるであろう子どもを解放していくことは、ほんとうに作品を全体化するし自由にするということがありえると思います。
  •  
  • 谷川 子ども時代には自分のなかの子どもの部分を意識化することはできないわけですよね。それからそれを制御することもできないと思う。だからぼくなんかがいま、自分のなかの幼児的な部分に気がついて、それを何かの形で蘇らせようとするのは、やはり自分のなかの大人の部分であって、それは自分のなかの幼児的な部分を、悲しいことにどうしても制御しちゃうわけですよね。
  •  だからそれは二面あって、制御できるから作品化というか言語化できるんだという面と、制御するしかないから、結局自分はほんとの子どもの至福というようなものは経験できないのだという。ときどきなんか書いててもそういう制御する自分の大人の部分というものがちょっといやになるということはある。(P31)

 

ここで語られている対象はこどものための絵本ですが、これを「こどものためのデザイン」ととらえ直してもいっこうに差し支えはないでしょう。

大人は総じて善か悪か、白か黒かをはっきりさせたがるようですしかし押しつけの善意ほど始末の悪いものはないように(それを世間では偽善といいます)。善と悪を両極に置いたつもりが、いつのまにか隣どうしだったなんてことも珍しくありません。本音と建前というのもその親戚かもしれないですねこどもはというと善も悪も白も黒も、お隣どうしの存在で常にその位置が入れ替わっているし固着もしていないという意味で全体性という言葉がしっくりくるのでしょう。

そこから考えていくと「こどもはこうあるべきなのだ」とか「こうすればああなる」式の大人の思い込みが、何の意味も成さないことが見て取れます。だから常にこどもから学ぶという姿勢が大事なのだと思います。

 

[tag:おとなの中のこども性 こどもOS]

ムーミンパパの「手帖」トーベ・ヤンソンとムーミンの世界(その5)

ムーミンパパの手帖

著 者: 東 宏治
ISBN:4-7917-6312-2

発行所: 青土社

発行日:2006年12月30日

 4 スナフキンと自由 よりの抜粋


  • スナフキンがとりわけ嫌うものが三つあって、ひとつはいま見た「家」、もうひとつは他人のおせっかい(「ぼくの探しているものは、おせっかいされないことさ(同139/146頁))、三つ目は、例えば「立入禁止」などと書かれた看板である。とくに看板に対する嫌悪は、いつも冷静な彼らしからぬ感情的な異常な興奮ぶりを見せる。『ムーミン谷の夏まつり』のなかでは、彼は、公園番の夫婦が芝生のまわりに囲いをし、いたるところに「煙草をすうべからず」、「芝生の上に座るべからず」、「笑ったり口笛を吹くべからず」、「跳びはねるべからず」といった人に禁止したり命令したりする看板を立てていることに腹を立て、ニョロニョロの種を使って夫婦を感電させて追っ払い、看板を全部ひき抜いてしまう。また『ムーミン谷の十一月』では、ヘムレンさんが単に「ムーミン谷」と書いた看板を橋の手摺に打ちつけただけで、気狂いみたいにとり乱す。「スナフキンのことを少しでも気をつけて見ている人だったら、この世の中には、たったひとつだけスナフキンを怒らせ、悲しませ、気狂いみたいにさせるものがある—それは看板だってことを知っているはずでした。もうスナフキンは気狂いみたいになっていました。金切り声をふりしぼり、手を振り足を踏みならし、世界中の釘という釘をみんなひっこ抜いてしまわなければ気が治まらなくなったみたいでした。(同書137/144頁)」
  •  
  • スナフキンが、一方で、家を嫌悪し、他人のおせっかいを嫌い、人に命令したり禁止したり人を閉めだしたり束縛したりする看板を憎むことは、他方で、ひとりでいることを好み、テント生活を愛し、旅を偏愛することと同一のことがらで、つまりそれは、彼が自由を愛しているということであり、自由を束縛するものを憎んでいるということなのである。(P45)

 

「なぜ滑るのか?」とこどもたちに問えば、「そこに山があるからだ!」と答えるに決まっている、おあつらえ向きの小山が公園の中にあります。しかも、滑って下さいと言わんばかりに芝生で覆われているのです。

こどもたちはわくわくしながら段ボールを持ってきて、思い思いの所から楽しそうに、はしゃぎながら滑っています。

しかし、左の写真の無粋な看板はいただけません。スナフキンでなくともひっこ抜きたくなります。せっかくの景観をぶち壊しています。

魅力的な山を作っておきながら遊ばせないという不条理には、日本特有の責任のなすりつけあいと自由に対する大人のねじ曲がった解釈が存在しています。

これは肯定すべきリスクであって断じてハザードではないということを良識あるおとなは理解しなければなりません。

 看板 そり遊び そり遊び

 あぶない!やまからすべりおりることはきけんです。やめましょう。○○しやくしょ

 

[tag:束縛と自由 こどもOS]

ファンタジーの文法 物語創作法入門 その1

ファンタジーの文法

原書名 LA GRAMMATICA DELLA FANTASIA〈Rodari, Gianni〉
著 者: ジャンニ・ロダーリ 訳 者:窪田 富男
ISBN: 4-480-02481-6
発行所: ちくま文庫
発行日:1991年9月25日

 ファンタジーの二項式 よりの抜粋


  • ヴィクトル・シクロフスキー※1は、トルストイの持っている《異化(ストラニアメント)》(ロシア語で《ostranenije》)の効果を記述しているが、トルストイは、粗末な寝椅子のことを語るのに、以前に一度も寝椅子を見たこともなく、それがどんなことに使えるのかまったく知らない人物の語り口を使っているという。
  • 《ファンタジーの二項式》においては、ことばは日常の意味で取り上げられるものではなく、日常的に果たしていることばの鎖から解き放されるものである。ことばは、互いに《引き離され》、《流浪させられ》、まだ見たこともない異郷の空でぶつけ合わされるのである。こうすることによって、ひとつの物語を生み出すよりよい条件があたえられることになる。(P42)

 

ある対談でグラフィックデザイナーの原研哉が、プロダクトデザイナーの深澤直人氏がデザインした、換気扇のような形の...紐を引っ張るCDプレーヤー(無印良品)を指して次のように述べています。

CDプレーヤー一見すると、どこが面白いのかよくわかんないんだけど、後で「あ、なるほど〜」と気付くデザイン。
紐を引っ張るとファンが回るって、もう皆知ってるわけだから自然に引っ張っちゃう。
でも実際は風はこなくて、ふわ〜っと敏感になった皮膚に音楽がそよいでくるわけだから、最初の瞬間は不思議なメカニズムを感じてしまうわけです。

その辺が彼の意図なんですね。その瞬間に「あ、なるほどー」と思うわけでしょ。
深澤さんのデザインは最初は普通すぎてわからないんだけど、やっているうちに「なるほど」「ワォ」ってそれが後ろにくる。
これを「Later Wow」と言っている。最初よりもその方が忘れがたいものになる。「First Wow」よりも印象的なんだと。

これは僕が言っているコンマ以下の世界みたいなものだと思うんだけど、ものの見方や感じ方をちょっと変えてみるだけですごく印象に残る。
それを探していくのが新しいデザインの世界ではないかなと。
やっぱり鋭いプロダクトデザイナーですよね。狙ってるポイントが他のデザイナーとは全然違うんですよね。小数点を出してきてるわけですから・・・。

さて、これをこどもOS的に解釈すると、換気扇とCDプレーヤーを結びつける深澤氏のファンタジーと遊びゴコロ。そして、みんなが知っている換気扇の機能を《異化》する(いい意味で裏切る)好例と言えるのではないでしょうか。


※1 ヴィクトル・シクロフスキー『散文の理論』

著 者: ヴィクトル・シクロフスキー 訳 者:水野 忠夫
発行所: せりか書房

発行日:1971年1月

詩的言語への深い考察から見慣れた事物を〈非日常化・異化〉する方法が芸術の方法だとする画期的な視点から文学作品の構造や表現方法を緻密に分析し、文学の内的法則の確立をめざしたロシア・フォルマリズムの代表作。

[tag:異化 ファンタジーの二項式 こどもOS]