ムーミンパパの「手帖」トーベ・ヤンソンとムーミンの世界(その2)
- 2008年11月 5日(水) 22:56 JST
- 投稿者: kawamoto(oidc)
著 者: 東 宏治 |
ISBN:4-7917-6312-2 |
発行所: 青土社 |
発行日:2006年12月30日 |
21 ヤンソンの方法 3 よりの抜粋
- 「《これはレタスだね。》と弟は言いました。《 その調子でいくと、お前はたちまち大人になるな。パパやママみたいになって、さぞ世間の役に立つことだろう。そうなったら、お前はただありきたりのことしか見たり聞いたりしないんだ。言っとくけど、そりゃ何にも見もせず、聞きもしないってことだぞ。そうなったらもうお終いだな。》こうホムサは言いました。(『ムーミン谷の仲間たち』33/37ページ)
- 「美しいもの」を(あるいはもっと広く言えば描くべき対象を、ここではレタスの畑を)最も簡単に言葉にし形式化して、結局形骸化してしまうのは、レタスをレタスと命名してしまうことだろう。それは書くべき対象のもつ名前の、ほんの一つにすぎないのである。もしその「美しいもの」を「レタスの畑」と言わずに黙ったまま記憶のなかにとどめ、何度も思い浮かべてみるうちに、かりに別な光に照らされたような気がして、マングローブの林のように見えてきてそう表現するなら。このメタファーはその「美しいもの」の別の名前を言うとともに、単にレタスと呼ぶ以上の奥行を、この美しいものに与えたことになるのである。(P212)
トーベ・ヤンソンは、分かりきった単純なものの代名詞として「レタス」を引き合いに出し、レタスの畑を見てレタスだと言う、すでにいっぱしの大人のような現実認識を持つ弟に対して兄のホムサを使って咎めさせます。
「これはレタスだ」と声に出して言うことで、そう言ったことばが巡って自分のなかで記憶される。こどもがことばを獲得して行くプロセスはその繰り返しであり、モノとことばが一対一で対応づけられることで形式化していく・・・。
その反面、こどもたちの見立て遊びやファンタジー、こどもOSが次第に失われていくということにクリエイターとして警鐘を鳴らしているのでしょう。
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