著 者: 谷川俊太郎 |
発行所: 青土社 |
発行日:1981年10月26日 |
I 表現行為と子ども―大江健三郎*谷川俊太郎 子どもの為の表現 よりの抜粋
- 谷川 子ども時代には自分のなかの子どもの部分を意識化することはできないわけですよね。それからそれを制御することもできないと思う。だからぼくなんかがいま、自分のなかの幼児的な部分に気がついて、それを何かの形で蘇らせようとするのは、やはり自分のなかの大人の部分であって、それは自分のなかの幼児的な部分を、悲しいことにどうしても制御しちゃうわけですよね。
- だからそれは二面あって、制御できるから作品化というか言語化できるんだという面と、制御するしかないから、結局自分はほんとの子どもの至福というようなものは経験できないのだという。ときどきなんか書いててもそういう制御する自分の大人の部分というものがちょっといやになるということはある。(P31)
- 子どもの為の表現
- 大江 大人が意識的に子どものふりをするということがありますね。大人の、子どもに対する表現の仕方が三つあるといえるかもしれない。わざわざ子どものふりをするというのが一つ。大人であることを意識していながら、しかし自分のなかのほんとうの子どもを解放すること、が第二。三番目には、大人でいながらもうすっかり子どもであるような、独自な瞬間での表現。ぼくは最初の、わざわざ子どものふりをする大人を、子どものとき拒否したかった。いま大人としての自分も、そうしたことをするのは嫌だと思っている。
- そのような気持ちで児童文学を読んでいると、わざわざ子どものふりをしている大人の書いた児童文学があって、それには反撥する。それは表現としても面白くない。書いている大人自身にとって、自己欺瞞の表現行動であるし、子どもの側もわざわざ子どものふりをしてもらわなくていいと思うだろう。(P32)
こどもの振舞いを見ていて「こどもOS」に遭遇すると嬉しくなります。でも、こども自身はそれをどう感じているんでしょう。こどもは受け狙いで大人の反応を横目で見ているところもありますし、自分はこどものふりをしてこどもに近づいているんだろうかと自問することもあります。だから、2人が提起する自己矛盾というものをひしひしと感じています。その中で、私が取ろうとしている立場は、大江氏が言われる選択肢の二番目です。こどもの振舞いを見逃さない沈着冷静な大人としての自分は不可欠です。しかし、こどもOSに共鳴するための自分の中のこどもセンサーを研ぎすませておくことも必要です。これから経験を積むべきことは、そうした「こどものスイッチ」をいかに自然体で無意識にONにできるかということでしょうね。
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