著 者: 谷川俊太郎 |
発行所: 青土社 |
発行日:1981年10月26日 |
I 表現行為と子ども―大江健三郎*谷川俊太郎 大人の中の「子ども」 よりの抜粋
- 谷川 ぼくが子どものことを考えるときに、いつでもいちばん考えるのは、結局自分のなかの抑圧されている子どもなんですね。それが抑圧されているというふうに、簡単に言い切っていいかどうかよく分かんないんだけど、少なくとも抑圧されている面はあると思うんですよ。
- たぶんどんな社会でも成人式とかそういうものがある以上は、大人は大人らしく振舞わなければいけないという社会的な規律があって、どんな人間でも子どもから大人へどうしても移行せざるを得ないわけだけれども、大人のなかに子どもの部分というのはつねに残っていると思うわけね、どんなに大人らしく振舞う人でも。
- (中略)
- マザー・グースの話から飛んじゃったけれども、そういう自分のなかの幼児的な部分、あるいは少年的な部分というものを、それを抑えることで大人になりたいと同時に、それをまた解放することでなんか自分を自由にしたい、いつでも両方の心の動きがあるみたいなんですね。
- 大江 さきの分析にひきつけていえば、幼児において表現される人間の全体性がある。大人になることで、全体的のものから部分的な偏った存在に転落する、局限される。そうである以上、その自分を全体的に解放しようとすれば、その手がかりとして、自分のなかで抑圧されている子どもを蘇らせることが必要だと感じる、ということになるのじゃないでしょうか。
- そうすると自分のなかで死んでいる子ども、抑圧されている子どもに、あらためて目を向けることは、人間の全体性を考える文学において、積極的な意味があるということになると思う。
- 谷川 そうですね。
- 大江 ぼくはその子どもを描くことと、批評家のある種の人たちがそれに対していう、幼児性への退行という言葉とを一度切り離したいと思うのですね。幼児的なものに過去と未来とがある、とユングがいうように、子どものイメージに自分を投げこむことは、必ずしも退行を意味しない。未来に向けておおいに一歩進んだのかもしれない。ついには死に向かっていく道のりで、大きい自由を獲得するための、全体性を獲得するための行為たりうるのかもしれない。そのようにして自分のなかにある子ども、あった子ども、未来にあるであろう子どもを解放していくことは、ほんとうに作品を全体化するし自由にするということがありえると思います。
- 谷川 子ども時代には自分のなかの子どもの部分を意識化することはできないわけですよね。それからそれを制御することもできないと思う。だからぼくなんかがいま、自分のなかの幼児的な部分に気がついて、それを何かの形で蘇らせようとするのは、やはり自分のなかの大人の部分であって、それは自分のなかの幼児的な部分を、悲しいことにどうしても制御しちゃうわけですよね。
- だからそれは二面あって、制御できるから作品化というか言語化できるんだという面と、制御するしかないから、結局自分はほんとの子どもの至福というようなものは経験できないのだという。ときどきなんか書いててもそういう制御する自分の大人の部分というものがちょっといやになるということはある。(P31)
ここで語られている対象はこどものための絵本ですが、これを「こどものためのデザイン」ととらえ直してもいっこうに差し支えはないでしょう。
大人は総じて善か悪か、白か黒かをはっきりさせたがるようです。しかし、押しつけの善意ほど始末の悪いものはないように(それを世間では偽善といいます)。善と悪を両極に置いたつもりが、いつのまにか隣どうしだったなんてことも珍しくありません。本音と建前というのもその親戚かもしれないですね。こどもはというと善も悪も白も黒も、お隣どうしの存在で常にその位置が入れ替わっているし固着もしていないという意味で全体性という言葉がしっくりくるのでしょう。
そこから考えていくと「こどもはこうあるべきなのだ」とか「こうすればああなる」式の大人の思い込みが、何の意味も成さないことが見て取れます。だから常にこどもから学ぶという姿勢が大事なのだと思います。
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